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casa della lavanda とはイタリア語でラヴェンダーの家という意味です。我家のシンポルは南斜面と庭の約200株のラヴェンダーです。趣味のことや日々感じたことなどをシンプルに記して行きたいと思います。
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父も……
母の後を追うように 父が17日10:46に
満98歳で亡くなりました。
その日の朝は元気だったらしいのですが
急に血圧が低下、苦しむことなく
旅立ったそうです。

 闊大院釋爽風居士

 闊大は父が生まれたアメリカ大陸をさし
そのアメリカに留学した後事業を起こし
成功をおさめた祖父(父の父)のフェニックスの
農園で栽培した苺を爽、父の干支の五黄の寅が
呼ぶ風を入れて 本当に父にぴったりの
戒名を頂きました。

古くから家の事を良くご存知のお坊様で
母の時に「悲しんではいけません。
お母さんが先に行ってお父さんに良い
席を取っていられます」と仰いました。
母が「お父さん、ここ、ここ!」と呼んでいる姿が目に浮かびます。

3週間足らずで相次いで両親の弔いを
しましたが 家族で暖かく見送る事が
出来ました。

余りにあわただしく悲しみに浸る余裕が
ありませんが 2人共年に不足はなく
苦しまずに幕を閉じられたのが
子供には慰めとなっています。

初七日を済ませ、諸手続きのメドが
ついたら帰ります。
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【2013/01/20 22:45】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(12) | Page top↑
母のこと
母は紀州の生まれで8人
兄弟(兄3人、姉1人、弟2人
妹1人)の5番目でした。
兄弟がとても仲がよいので
私達もおじやおばにとても
良くしてもらいました。
祖父は婿養子で小学校の校長、
祖母は呉服屋を営んでいました。

とても負けず嫌いで「まけるもんか」
が母の口癖でした。
勉強も良く出来たそうで 祖父の
自慢の娘だったそうです。
女学校を卒業する時には総代で
答辞を読み 成績優秀者で新聞に
載った時は祖父は鼻高々だったそう
です。
末の弟を可愛がり勉強は母がみて
一番にならないと気に入らなかった
そうで後に叔父は
「フミちゃんのお陰で医者になれた」
と言っていました。
母の実家の系統は総じて小柄ですが
「山椒小粒でもピリリと辛い」が
モットーで頑張り屋が多いのです。

結婚してからの生活は順風満帆では
ありませんでした。
父方の祖母が有名な女傑で母の苦労は
並大抵ではなかったのを私達は
みて育ちました。
長女だった姉は 母を守ろうと
かなり祖母に抵抗しました。
母は教育ママの魁でした。
(私に対しては効果がなかった・・・)
この厳しさは姑に対する母の意地だった
と思います。

母が姑に仕え一家を守ったことで
「あのお母さんの娘さんなら」
ということで 私達娘に縁談が
持ちこまれたこともありました。

祖母が亡くなってからはやっと
財布の紐が自由となり自分の
時間も持てて 短歌や書道を自分なりの
方法で楽しみ特に書道は80台の後半まで
続けました。

又 頼まれて総理府の統計調査や
家計調査を長く続け、渋谷の
NHKホールで総理大臣表彰を受けた
こともありました。

そんな母は90台に入ると好奇心を
失い、やる気がなくなって行き
父が入院した頃から 認知が
進んで行きました。
頭が良かった分介護が難しい面も
あったことは事実です。

頑張って生きてきたが、もう頑張る
必要がなくなり支えがなくなり
タガがはずれたようでした。

戦争をくぐり抜けたあの世代の人たちは
多かれ少なかれ苦労をしましたが
振り返って 母の一生はそう悪くは
無かったと思います。

60台の母は「私もあんな風になりたい」
と思うようにオシャレで向学心が
強かったです。
母をお手本に私もこれからの生き方を
考えて行きたいと思っています。









【2013/01/16 11:22】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(6) | Page top↑
母 逝く
年が押し詰まった12月29日9時44分
母が93才で彼の地に旅立ちました。
穏やかな最期だったそうです。

27日に介護当番を終えて白州に
戻る朝「また来るからね」と
耳元に語りかけた時、かすかに
頷いたのが母との最後でした。
27日夜遅く白州に着き、28日に
荷物が届いたけど開ける元気が
出ないでそのままにしていたら
29日朝「呼吸が止まった」と
姉からの連絡が入り トンボ返り
しました。

帰省ラッシュの羽田空港で奇跡的に
最終便に1席だけキャンセルがあり
たあちゃんを羽田に残し、私1人
先に飛び乗って帰りました。

母はまるで眠っているみたいで命の
火が消えた事が信じられなかった
です。 苦しかった闘病生活から
解放された安らかなその顔を見て
「これで良かったのだ」と納得
しました。

慌ただしい大晦日に3人娘とその
連れ合い、孫、曾孫、甥、姪達に
見送られ、母は旅立ちました。

 慈光院釈尼美心大姉

江戸中期の大名茶人 片桐石州が
両親の菩提を弔うために大和郡山に
建てた慈光院の文字が入っていたのが
嬉しかったです。

父には母の死は知らせていません。
父もいつ何が起きてもおかしくない
状態ですが 頑張ってくれている
のが 私達娘の張り合いです。 

初七日を済ませ7日に白州に戻り
ました。 熊本で引いた風邪が
なかなかよくならず ついに今日は
医者に行き薬を貰いました。

今熊本には姉夫婦が残り、諸手続きと
父の介護をしてくれています。



下は 実家の庭の白侘助

【2013/01/11 21:35】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(12) | Page top↑
PROFILE
みゃあくんのおかあしゃん
  • みゃあくんのおかあしゃん
  • 「たーちゃん」と「私」と「可愛いみゃあくん」と 3人、片田舎でslow lifeを送る積りがあたふたと日々暮らしています。
    悲しいことに みゃあくんは2008年の5月にお空の星になりました。 でも これからもずっと みゃあくんのおかあしゃんです。 
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